志しを高く持って生きることは、素晴らしいことです。
しかしながら、頑張ることを【楽しい】と思えなければ続きません。
『○○しなければならない』と思ったら、歩みを止めて頑張ることを辞めるのもアリだと思っています。
歩く方向性を変えることはとても勇気がいりますが、おかしな方向に向かって無駄に歩くのもそれはそれで問題です。
プライドを捨てて、柔軟に方向性を模索するのはいいことです。
私なんかは(同一人物とは思えないくらい)生き方や発信の方向性をコロコロ変えるし、プライドや他人からどう見られているかもさほど気にしません。
ただ、そのすべてが自分であり、根底は同じなわけです。あって話せば何も変わってないことはわかるとおもいます。
若さゆえ『何者かになりたい』という欲望を持ったこともあります。
経験上、身の丈をこえてしまうとうまくいっていてもそれは苦痛でしかなく、仮面をかぶりすぎてどれが素顔だかわからなくなってしまった。
そんな過去を踏まえると、頑張らないってのはありのままの自分を肯定することであり、人生の目的は『生き抜くこと』だと思っています。
歴史の教科書やWikipediaに名前を乗せるために生きているわけでもありません。
経歴を自慢するために生きているわけでもないですからね。
自分ではない何者かになろうと努力するのは苦痛です。
私は自分の思ったことを自分の言葉として発信していますが、なんか目指しているわけでもありません。
それが誰かの人生や悩みに対して参考になれば、救われる人がいたらそれはそれでいいんじゃないかと思うわけです。
結果的に自分は自分にしかなれないということ。
何かを成し遂げたい、されど辛い。ということならば、仲間を作るなり『自分をそうさせたいとおもわせる環境を作る』のが手っ取り早い。
一人で何かを成し遂げるのは、自分らしさとやっていることのシンクロ率が高いってのが絶対条件なのではないかと思うのです。
人それを『才能』と呼ぶのでしょう。
人の人生ではなく、自分の人生を歩むことが、幸せになる絶対条件です。
そのためには、自分のやりたいとおもったことをやって、嫌ならやめて、それでも全然いいじゃないですかね。
そもそも人は他人の人生に興味はないのですから。
楽しくないことは頑張らない。そして、楽しいことは頑張るという概念がないものです。
つまり、頑張るとは無理をしているということ。
息を止めてスプリントしている状態ですから、いつかは酸欠で倒れます。
嫌なことを頑張ったとしても、いいことはなにひとつありません。
自分らしく歩いた先で、自分が笑っていればそれで良きです。
別に頑張らなくても、人は幸せになれます。自分を失わず、自分らしくさえいられれば。
頑張る を 楽しむ に変えることができれば、それが一番いいのかもしれませんね。